Dancer / Instructor / Choreographer /
YouTuber / Model
Birth Date : 1993/03/11
Birth Place : JAPAN / SHIGA
Blood Type : A
滋賀生まれ、田舎育ち。
小学一年生でダンスをはじめ高校卒業後、
プロダンサー養成所BASEであらゆるダンスの本質を学ぶ。
卒業後、本格的にプロダンサーとしての活動をスタート。
LOCK DANCEをベースに様々なダンスの要素を織り交ぜ独自のスタイルを提示し続ける。
作品の振付力に定評があり、日本一の振付師を決定する大会”Legend Tokyo”にて
初出場ながら審査員賞3冠を受賞し全国4位を獲得。
指導生徒数は現在200名を越え、プロデュースしたキッズチームを活動2年で全国優勝へと導く。
常に時代の流行を察知し、自らの要素と織り交ぜ新しい表現を世に提示する。
大切にしているモットーは「ココロ踊る毎日を」
経歴
・Legend Tokyo Chapter.8 審査員賞3冠受賞
・Legend Tokyo Chapter.9 審査員賞受賞
・DANCE ATTACK!! 大阪大会 優勝
・DANCE ATTACK!! 決勝大会 準優勝
・TRUE SKOOL グランドチャンピオン大会 優勝
・北海道KING 決勝大会 優勝
・JAPAN DANCE DELIGHT VOL.18 FINAL 出場
・HAISAI大阪大会 優勝
・ZERO CONTEST 東京 優勝
・SUMMER SONIC 2014 出演
・日本テレビ【スター☆ドラフト会議】出演
・日本テレビ【24時間テレビ】ダンス甲子園出場
1993年3月、滋賀県日野町にて生まれる。
「やってみたい!」という好奇心はあるものの、すべて長続きする事のなかった幼少期。
ひょんなことがキッカケでダンスに出会い
ダンサー ・ 振付師 ・ YouTuberとして
活動する人生へと歩み出すことに。
1999年、当時小学一年生。
何も長続きしなかった少年が、
"ダンサーとして生きていく"
と決めた
2012年に至るまでの13年間を振り返ってみた。
小学1年生の夏、運動会で初めて踊ったダンスを母が見た事をキッカケでダンススタジオへ。
「この子にはダンスしかない!」
オカンの直感が閃き、連れていってくれたらしい。
はじめて行ったダンススタジオは
滋賀県八日市にある「COLD SWEAT」
当初は自分から練習するような熱量はなく、
ただの習い事として踊っていたように思う。
なんとなくレッスンに通う日々の中、
9歳の時に伝説的ロッキンチーム
【Hilty & Bosch】の映像を観て衝撃を受ける。
その頃から”LOCK DANCE”に惹かれはじめる。
初めてのLOCKのレッスンは、あまりにも自分が踊れなさすぎてレッスン後に大号泣...。
先生が両手を広げて「飛び込んでこいっ!」と抱きしめてくれた事はいまだに記憶に残っている。
どんどん教えてもらう新しい動きを覚えるのは楽しくて楽しくて仕方がなかった。
LOCK DANCE にハマった事をキッカケに猛練習し、当時ダンススタジオがプロデュースする
キッズダンスチームのオーディションに合格。
滋賀、大阪、福井、岐阜、石川、様々な地域のコンテストに出場し、少しずつ入賞を重ねていく。
その結果を喜んでくれる母の姿が嬉しかった。
コンテストに挑戦する日々の中、
大阪のスーパーキッズダンサーで後の人生の盟友
「Takuya Matsunaga」「AKIHITO」と初めて出会う。
年齢からは考えられないスキルとテクニックに「同い年でこんなに上手いダンサーがいるのか!」
感銘と衝撃を受けた当時小学5年生の自分。
僕が初めてダンスを始めた
【COLD SWEAT】を辞めることになり、
滋賀県守山市にオープンしたばかりの
【Dance Studio Think】へ通うことに。
そこで人生の師匠「ASPALAさん」と出逢い、
改めて【踊る喜び】を教えてもらう。
プライベートでも遊んでもらうようになり、
まだ幼い自分が始めて見る知らない世界。
「大人の世界ってワクワクする!!」
非日常な経験に胸が躍った。
この時のASPALAさんとの出会いは、
自分の人生の分岐点だったと思う。
「Takuya Matsunaga」と「AKIHITO」から受けた刺激と衝撃が忘れられず、
滋賀の田舎から大阪十三にあったダンススタジオ「DO-UP」へ通いだす。
2人と再会した時に「AKIHITO」から睨まれる。
後に聞くと本人はえらく目が悪いらしかった。笑
この再会から様々なドラマが生まれることに。
大阪のスタジオに通い出しHIPHOP DANCEに明け暮れた日々。
「LOCK DANCEもしたい...」
そんな思いも拭いきれない中、
レッスンが始まる前にとある男の子が目の前に登場。
天井の鉄筋にぶら下がりながら
「オレもロックダンスやってんねん!」
とびきりの笑顔で話しかけてくれたのが
「サトシット」
その一言から仲良くなり、ロックダンスチーム【AIR:LIVE】が誕生。
人生の相棒であり現チカログのマネージャーである。
【AIR:LIVE】としてダンスコンテストへ挑戦!
迎えた全国の中学生が集まる全国大会
「DANCE ATTACK!!」の予選に出場。
初めての結果は...残念ながら予選落ち。
同じスタジオの同世代たちは優勝、準優勝と結果を残していく。
結果発表が終わり負けてもヘラヘラしていた自分の前で、オカンが涙を流しながら悔しがっていた。
自分の中のスイッチが入った瞬間だった。
サトシットとコンテストに挑戦する日々。
全国大会「DANCE ATTACK!!」では全く結果を残せない。
出れど出れど勝てず、その当時の自分は完全にLOCK DANCEに対しての熱量が冷めてしまっていた。
サトシットに解散したいと伝えた事も。
「どんな形になっても続けよう!」
そう言ってチームを存続させてくれたサトシットには、
その当時も今も本当に感謝しかない。
心から有難う!
そして中学生の全国大会の挑戦は、
一度も結果を残せないまま終わることに。
高校受験のタイミング。ダンスをする為に大阪の単位制の高校に行く予定だった。
だが本心は違った。
「一生に一度の人生。ちゃんとした学生生活を送りたい!」
ボクの事を考えて選択肢をくれたオカンに、
泣きながら進路を変更したいと伝えた。
根気負けしたオカンは
「もうアンタの勝手にしい」の一言。
すでに受験の2ヶ月前。担任から伝えられた合格率は40%。私立受験はしていない。
そこからはダンスを一旦やめてエリート同級生に苦手な数学を教えてもらう日々。
その甲斐もあって無事に...受験合格。
合格発表を見に行って1番喜んでいたのもオカンだった。
高校一年生。同じスタジオで育った同世代達で
結成したチーム【Quicker DDD】誕生。
運命の出会いをした「Takuya Matsunaga」「AKIHITO」相棒サトシットも含めた8人チーム。
そのチームで挑戦した全国大会「DANCE ATTACK!!」にて予選を突破し準優勝を獲得。
その夏の24時間TVの企画「ダンス甲子園」の
決勝に出場し武道館の舞台で踊る。
ただ...何か心に残る。
共に踊った仲間たちは全国大会2連覇や全国大会2位を受賞してきた努力と天才のメンバーたち。
自分たちはこの時、本当になんの実力も結果もなかった。
「これは俺たちのチカラの結果じゃない...。」
受賞したと同時に自分に対して言葉にできない
モヤモヤを感じた瞬間だった。
改めて迎えた全国大会は【AIR:LIVE】として再挑戦。
「自分たちのチカラを証明する」
そう決めて迎えた全国大会の結果は...3位。
サトシットと2人で獲得した全国大会で初めての入賞だった。
隣で号泣するサトシット。
2人で入賞できたことが本当に嬉しかった。
どんな結果よりも、この時いただいた三位が
今でもいちばん記憶と心に残っている。
高校生活はダンスとバイトに明け暮れた日々だった。
レッスン費はもちろん滋賀から大阪へと通う
交通費もバカにならない。
たくさんの方に協力してもらいレッスンに通えた事への感謝は今も忘れない。
その中で全国大会への挑戦も続けていた。
当時LOCK DANCEを踊るチームは全国でも少ない時代に、ボクたちと全く同い年で
同じLOCK DANCEを踊るチーム【PenGuin】の存在を知ることになる。
共通点が多い分、僕たちはすぐに打ち解けた。
それと同時に...
お互いが思ってることはひとつだった。
「全国制覇」
その想いが重なり合い
【AIR:LIVE + PenGuin】が誕生。
なんの迷いも脅威もなかった。
ひたすらまっすぐに優勝に向けて駆け抜けた日々。
僕たちの挑戦はたくさんの期待と応援をチカラにして、結果...優勝する事ができた。
中学生の時は一度も入賞出来なかった全国大会。
なにひとつ賞をいただけず、努力が水の泡だと思ってしまうほど、自信を失っていた。
「自分たちのダンスとは??」
サトシットと模索していた時間が報われた気がした。
あの時、ボクより悔しがって泣いていたオカン。
そのオカンの首に金メダルをかけてあげた時、
願い続ける思いはいつか色づくと、
自分たちを初めて信じられた瞬間だった。
高校卒業を控えるボクは...
完全に進路に迷っていた。
全国優勝を達成し、ダンスに対して燃え尽き症候群に陥っていた。
当時ダンサーとして生きていくとは全く思っておらず、
美容師・警察官・教師・コック、いろんな事に興味を持っていた。
進路面談で恩師から「お前の内申点なら大学に行きながらダンスができる!指定校推薦を狙えるぞ!」
思わぬ一言。「オレが大学生になるの?」まさかの選択肢に胸が躍った。
が高校3年間の遅刻がケタ違いに多すぎて結局白紙に。
自宅でオカンと進路について話してみた。
色々話したと思うけれどオカンは一言だけ。
「何をするのもいいけど、ダンスでの恩返ししかお母さんはいらんで」
その言葉がダンスの養成所へ行くキッカケになった。
そして生まれ育った大好きな滋賀県から大阪へと拠点を移すことになった。
18歳、初めての一人暮らし。
その日の夜は、騒音と明るいネオンの街並みで眠れなかった。
プロダンサー養成所「BASE」へ入所。
毎日ダンスに明け暮れ、朝から晩まで踊る日々。
身体は悲鳴をあげていたが、日々の刺激で心は燃えていた。
ただ現実問題、一人暮らしの家賃も稼がないといけない。とある居酒屋でバイトを始める。
滋賀の田舎出身の自分は、2倍ほど違う大阪の時給の高さに驚きを隠せなかった。
朝から夕方までダンス。夕方から朝までバイトの日々。踊るよりもバイトの時間がとにかく長かった。
その当時、睡眠時間は3時間ほど。バイト中、繁華街でビラ配りをしながらふと空を見上げた。
ネオンが光る看板とタバコの煙で曇った商店街の空を見上げながら
「オレ、バイトする為に大阪に来たわけ違う!!」
そう心に浮かんだ。そこからはシンプル。
卒業まで...あと半年。
「ダンスで結果を残してバイトを辞める!」と決心。
その為にひたすらコンテストに挑戦した。
Chikayaという存在、チームとしての存在をとにかく世に知ってもらいたい。
とにかくがむしゃらだった。
人は決めたら動くもので、AIR:LIVE+PenGuinとして世界最高峰のダンスコンテストへの出場や
数々のビッグタイトルをこの時期に獲得したと思う。
その影響もあり大阪の鶴橋でのレッスン、
そして今もお世話になっている
奈良県Super Dance Studioでインストラクターとして働かせてもらう事になった。
人生はじめてのダンス指導。実は初めはダンスレッスンをしたかった訳ではなかった。
正直言うと、自分のためだけに踊りたい思いが強かった。
自分の中で”教える”事にしっくり来ていなかったけれど、
そんな自分にも真っ直ぐ着いてきてくれる子ども達を見て心が動いた。
「ダンスで人の人生を潤したい」
そう思えたのは皆のお陰だった。
怒涛に過ぎる日々の中、気付けば卒業する頃にはバイトを辞める事ができていた。
この時にはすでに
「ダンサーとして生きていく」
自然と決心していたと思う。
ボクを育ててくれたASPALAさんとは、
実は養成所入所前に
「養成所を卒業した後、ボクが必要だと思ってもらえたらThinkで働かせてください」
そんな約束をしていた。
ボクを認めてスタジオに迎え入れてくれた
師匠ASPALAさんには今も頭が上がらない。
養成所を卒業しダンサーとして生きていくなかで、
生意気な若造だったボクを拾ってくれた方々がたくさんいた。
お世話になった方々は数えきれないが
奈良Super Dance Studio
滋賀Dance Studio Think
大阪STUDIO A-Sh
京都STUDIO DANCE ALIVE
滋賀COLD SWEAT
人生の仲間と相棒に出会わせてくれた今はなきDO-UP
各スタジオのオーナーさんには特に...
心から感謝が止まりません。
2012年、春。たくさんの想いを胸に抱え、本格的にプロダンサーChikayaとして活動スタート。
新たな人生の幕開け。